駐在員へらじかのアメリカ生活、子育て、マイルと仮想通貨

妻と2人の子供とアメリカ駐在中の30代サラリーマン。 物価が高い先進国での金銭事情、子育てと英語教育、旅行費節約のため2年で80万マイル獲得したノウハウ、仮想通貨とETFでの資産運用について、惜しげもなく赤裸々に。

自己紹介:へらじかの生い立ちから今日まで

駐在員、へらじかです。

ブログの目標である赤裸々なアメリカ生活や金銭面の様子を綴るにあたりリアリティを増すために、まずはへらじかの生い立ちから今日までとパーソナリティを紹介します。

 

 

30数年前に秋田県で生まれ、父の仕事の都合で日本で何度か引越をしました。転勤族の性質か、子供のころから環境の変化には比較的強く、行く先々で友達を作るのは得意な方。当時はコロコロコミックをバイブルにしてポケモン、ミニ四駆やハイパーヨーヨーをコミュニケーションツールにして友人関係を築いていったと思います。

それでも転校の度に以前の友人とは疎遠になっていくのは寂しく、子供ながらに将来はサラリーマン、転勤族にだけはなるまいと誓ったものでした。(それがまさか、アメリカまで来ることになるとは)

当時はまだメールもSNSも普及していなかったので、今の子供たちはもう少し違う形で友人関係を作れるんでしょうね。デジタルネイティブのうちの子たちが大きくなるころにはきっと想像もつかない形でコミュニケーションをしているんだろうと思うと楽しみでもあり、少しうらやましくもあります。

 

中学時代はスラムダンクの影響をモロに受けてバスケ部に、高校時代は何を間違ったかラグビー部に所属していました。端的に言って超がつく運動音痴だったので活躍どころかベンチ入りもしませんでしたが、チームスポーツで共に苦労した仲間は貴重でいまでも交友があります。

高校のラグビー部は県内のいわゆる強豪校だったので練習も厳しくつらいことばかりでしたが、心身ともに鍛えられました。スポーツテスト(呼び方は忘れましたが全国統一のやつ、今でもあるんでしょうか)の成績も毎年伸びて、3年生の時には優秀賞のメダルをもらった記憶があります。それでも50m走だけはずっと遅いまま、女子にも負けるほどだったのがちょっとしたコンプレックスです。自分の子たちには足が早くなって欲しい。子供のかけっこのトレーニングは数年後に研究したいテーマです。

 

大学は東京の私立文系に進学。ラグビーは3年生の11月末まで続いたのできちんと受験生をした期間は実質数ヶ月。何科目も勉強するのはどう転んでも無理だったのでセンター試験3科目の成績だけで入れる大学を探してリソースを集中。国語、英語、日本史の成績だけで無事に現役合格できました。

実家は貧乏ではなかったですが裕福でもなかったので、浪人NG(金銭的に)の方針がありました。これがあったからこそ、制約がある中で成果を出すために選択と集中をするという頭の使い方ができるようになった気がします。ちなみに、予備校にも通っていませんでした。親孝行したなあ。

 

大学生の頃はバイクに乗ったりアルバイトをしたりとプラプラしてましたが、卒業間際の12月に一念発起してニュージーランドへ1ヶ月のホームステイをしました。動機はいくつかありましたがどれも人に語るのは恥ずかしいものばかり。

・就職活動を通じてグローバル化、グローバル化と言われ続けたのでその波に形だけでも乗っておかないと格好がつかないと思った。

・当時彼女がいなかったので、クリスマスに一人で居たくなくて海外に逃げた。

・ラグビーが好きだったから本場のオーストラリアかニュージーランドで観戦したかった。(12月はニュージーランドの夏にあたり、ラグビーはオフシーズン。クリケットばかり見ることになったというオチ付き)

このステイで親友と呼べるニュージーランド人の友人ができ、ステイ先のファザーマザーとはいまでも連絡を取っていて、駐在員に興味を持つきっかけに!

とか言えたらかっこいいのですが、一切無かったです、そういうの。だって英語話せなかったし、通じ合えないし、当たり前ですが。ステイ先のマザーが「鳥に餌あげたいからBread(パン)取ってきて。逃げちゃう前に早く!」って言ったのをブランケットと聞き間違えて毛布取ってきたら、「何を聞いてたんだこの野郎!あんたの朝食は明日から毛布よ!!」って切れられたのが一番の思い出です。

その夜悔しさと軽いホームシックで二十歳すぎてベッドで泣いたのもまた思い出です。

 

そして東京で日系企業に普通に就職。晴れて、あれほど嫌っていた転勤族サラリーマンになりました。入社時の書類にはしっかり書きました、希望職種は海外営業と。だって兎にも角にもグローバルの時代ですから。当時のTOEICスコアは400点、大学生平均より低かったですけど根拠も無く「やれます!海外営業!」って言って必死に体裁をつくろっていました。

当たり前の話ですがそんな新人に海外営業の役割は与えられず、配属は国内の企画部門でした。会社の売上は国内よりも海外比率が多かったので、ただただ漠然と海外の仕事にあこがれながらも、いつかはいつかだと、先延ばしにしてまともに英語の勉強はしませんでした。

 

転機になったのは入社3年目での関係会社への出向。出向直後に親元の部署である本社の企画部が組織解体、戻り先が無くなりました。出向先での働きは本社の誰の目にも留まらず、組織のひずみに埋もれていく未来を想像しながら焦り、このとき本気で自分のキャリアを考え直しました。

時を同じくして、東日本大震災が発生。当時は東京勤務でしたがニュースで流れる映像をみて、いつかやろうと思っていることは今やらないと後悔してしまうと腹を括り英語の勉強に本腰を入れました。出向先から本社の誰かの目に届くのは定量的なわかりやすい数字、TOEICだと考えてこの勉強に注力しました。同じ理由から、いつかは、と思っていた当時の彼女との結婚を決意、入籍しました。いまの奥さんです。

この時の英語の勉強の話は今後のエントリーで書こうと思っていますが、一言で表すと、自分は音読が効きました。

 

そしてTOEICは駐在員の最低必須ラインである700点を突破。2015年からアメリカへ駐在しています。

 

2014年に生まれた娘を連れて渡米し、2016年にはアメリカで息子を授かりました。家族4人で楽しみながら、苦しみながら、毎日を過ごしています。

 

次回以降はアメリカの生活、子供の英語教育、趣味となったクレジットカード作りとマイル獲得、そして資産運用のための仮想通貨の話をアメリカ東部から発信して行こうと思います。

 

へらじか